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【テレビ朝日】「気づきの扉」に出演しました。【インタビュー】

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2020年5月29日、テレビ朝日の「気づきの扉」という番組に出演しました。

芦田愛菜さんの声で語られるドキュメンタリー番組です。「法廷画家」として出演し、仕事にまつわる気づきの話をしました。OAを見て小さいころから知っている女優さんが僕の名前を読んでいるのを見て不思議な気持ちになりました。

出演にあたってインタビューを受けたのですが、そのアーカイブをこちらでもシェアしたいと思います。

よしたか
よしたか
少々長いですが、お付き合いください。

イラストレーターを目指していた頃、どの様なアーティストを志していましたか

▲イラストレーターを名乗り始めた2003年ごろの僕

僕は「絵を描く=アート」とは思っていない人間なので、アーティストになろうと思ったことはありませんでした。好きな画家やイラストレーターはいましたが(ノーマンロックウェルやアルフォンスミュシャ、鳥山明や近藤喜文など)、この人のようになりたい!というように誰かに憧れを抱くことは特にありませんでした。今もありません。

他の「イラストレーターになりたい」という方と話をすると、そのあたりにどうもズレがあるのをいつも感じていました。どうやら多くの絵描き志望者は「憧れるあの人のような仕事がしたい」「自分の個性が認められて世間に高く評価されたい」「いつかは有名になりたい」と思っているようで、そういう点で私はマイノリティであると感じていました。

では、なにを志していたかというと、「絵を描くということで社会と関わっていたい」ということでした。社会と関わるとは、具体的にいうと人の「役に立つ」ということだと考えていました。幼少期から絵を描くのが好きだった僕は、かなり早い段階で「これを将来の職業にしよう」と決めていました。人の役に立つためには人が求めるものが描けるようにならなくてはならない、そのためにデッサンや基礎学習が大切だと思い、目に見えるもの(日用品や乗り物)を忠実に描く練習などしていました。周りの絵を描く人たちは「自分の好きなもの(漫画のキャラなど)を好きなように描く」ことに夢中でしたが、僕は自分の好きなものを描いているだけではおそらく生活ができないだろうと考えていました。

▲当時描いていたイラスト

実際、小2のころ授業参観があって将来の夢を聞かれた時、「ごはんがたべれるようになりたい」と答えたのを覚えています。母親には「普段食べさせてないみたいで恥ずかしかった」と後で叱られましたが、僕はそういう意味で言ったのではなく、絵を描いても社会に必要とされていなければ十分な報酬が得られない、それではごはんがまともに食べられない、なので社会に必要とされる絵描きを目指してきちんとごはんが食べれるようになりたいという意味で語ったのでした。

イラストレーションという言葉の語源は、ラテン語のlustrareだと言われていて、「照らす」「明るくする」ことから転じて「わかりやすく図解する」という意味が含まれています。写真や文章表現だけでは難しい部分を補助する役割があり、純粋芸術としてのファインアートとは存在意義が異なります。そういったことを考えるのは大きくなってからでしたが、僕が「絵描きになる」と決めてそれを目指す努力をしてきた方向性は、このイラストレーションの定義と合致するところがあり、「図解」を必要としている人の役に立つ技術の習得という点で同じだったと思います。

繰り返しになりますが、僕が志していたのはアーティストではなく、「絵を描くということで社会と関わっていたい」という一点であり、それは今も変わらずもちつづけている僕の基本方針です。

法廷画家を始める前と後で、「画家・アート・イラスト」などに対する自分自身の考え方に変化はありましたか

特にありませんが、法廷画に関する所感でしたら少々あります。

まず法廷画家とはどういう職業か、というと、それのみで生活ができるようなものではないので兼業となります。僕が知る範囲ですが、多くは画家、イラストレーター、グラフィックデザイナーがメインのお仕事である場合が多いです。(中には学生さんのアルバイトもいますが)

法廷画家、と書くので「画家=アーティスト」と思われがちですが、この場合の画家とは「広義の意味での画家」であって「法廷で絵を描いてる人」くらいの意味だと思っています。そして法廷画とはなにか、というとこれが特殊でして、似顔絵ではあるが似顔絵ではない、絵画であるが絵画でないというものだと感じています。

似顔絵であれば描かれた人が喜ぶような魅力的なものでなければならない(二、三割盛って描くというのは絵描きの間では定石です)、絵画であれば一枚の絵で芸術的価値を持たねばならない。しかし、法廷画はどちらでもありません。被告人や弁護人をイケメン風に盛られた法廷画というものを見たことがありませんし、望まれてもいないでしょう。

なぜなら法廷画家はあくまで「カメラのかわり」であって、魅力的に人物を映し出すことが目的ではなく、事実目の前に繰り広げられる風景をありのまま伝えることを目的としているからです。事実以上に美しく描く必要はないし、一枚の絵画としての芸術的価値も問われません。被告人が、いまどのような態度で、どのような環境で裁判を受けているのか、

社会を騒がせた事件を起こした人物が、司法という国家権力によって今どのように裁かれようとしているのか、これを国民の知る権利の元に設置された傍聴席から目で見て、その事実をスピーディに紙に描き出し、絵を見る人にその現場の様子を伝える、これが法廷画家の仕事であり、他の画家やイラストレーターと一線を画すところだろうと思います。

法廷では、様々な事件がありますが絵を描く上で個人の感情は入るものですか

人間は感情の生き物なので、僕ももちろん感情は持ちます。なんの落ち度もない被害者が加害者の圧倒的暴力によって無残に殺害され、肩を震わせながら被害者遺族が無念の言葉を口にする法廷にいると、加害者に対する怒りが沸き起こってきたりもします。

しかしながらそれを絵に反映させるということは絶対にありません。目的がずれるからです。報道番組で裁判の様子を知らせるために描く法廷画に、僕個人の感情など必要あるはずもありません。

「人が殺されました」「殺したと疑われている人間がいます」「その人間も自分が殺したと証言しています」という裁判が目の前で繰り広げられていても、その被告人は現時点では「推定無罪」なのです。その人間を「あきらかな悪人」として顔をゆがめて醜く描く、というようなことをするのは絶対にNGであり、そんな私刑的行為をしてしまっては目的が果たされないと考えているからです。

あくまで「推定無罪」。ときに歯がゆくもありますが、冤罪を生み出さない知恵として歴史の中で築き上げられてきた近代国家のルールです。

故に絵を描くことと個人的感情には一定の距離をおいて仕事を遂行するように心がけています。

現在、娘が二人いるのですが、幼子や若い女性が犠牲になる事件の裁判のあとは気分が沈むこともありますね。虐待死の裁判など聞くに堪えないようなことも耳にします。子どもをもってなおその気持が強くなりました。

しかし、法廷で絵を描く最中は感情との適切な距離をおいて、仕事に影響がないように注意しています。

榎本さんは法廷で何を見ているのでしょうか、どの様な感覚で「切り取り」作業を行っていますか

正直、人の気持ちなんてわかりません。これは永遠にわからないと思っています。「あの人は今こう考えている、私にはわかる」などというのはその人の勝手な妄想だと思います。

なので、被告人が謝罪の言葉を口にする時、それが心からの反省なのか、口からでまかせなのか、それはわからないと思います。

ただ、人を殺害しておいて、形式的にペコりと頭を下げるだけの謝罪を示す被告人もいれば、顔を真っ赤にして悲痛な表情を浮かべて、声を震わせながら長く頭を下げて謝罪する被告人もいます。「心から謝罪しているか」はわかりませんが、「目の前でこのような謝罪が行われた」ことは事実であるから、僕はそれを絵にします。

武蔵小金井のライブハウス前で19歳の女性歌手がストーカー男に滅多刺しにされた裁判を傍聴しました。その男も謝罪は口にしていましたが、被害者が今、どのような苦境に立たされているのか(全身34箇所を刺され、眼球や口輪筋も損傷。片目はほとんど見えず、口がしっかり閉じれないから食事もぽろぽろこぼしてしまうような有様)、私の日常生活は破壊されてしまった。このような目に合わせた犯人を許さないという手紙が検察官によって朗読されていた際、被告人は終始ニヤニヤと笑っていたのです。ストーカーは被害者の反応はどんな反応であれ褒美に感じるそうですが、これがまさにそうか、と思いました。自分の行った行為に対して相手が反応してくれているのが嬉しくてしょうがないのですね。それが怨嗟の言葉であったとしても。こんな凄惨な朗読が響く法廷内で被告人が笑ってそれを聞いていたという事実。僕はそれを絵にします。

ナンパアカデミーというサークルに入って女性を次々強姦していた男は、母親が証人として入廷し「本当に息子は馬鹿なことをしたと思っています」と話していたとき、顔を紅潮させて深くうつむいていました。情けなく、恥ずかしいのでしょう。親に顔向けできない、とは正にこのことだなと思いました。僕はそれを絵にします。

東名あおり運転事故裁判では、犯人は無反省の極悪非道な人物として連日報道されていましたが、裁判で被害者親子の話に言及した際、涙声になり、ハンカチで目頭を抑えていました。僕はそれを絵にします。

それが事実を伝える報道の一助になると信じているからです。

これまで最も印象に残る成功もしくは失敗のエピソードを教えてください

成功は特に思いつきませんが、(法廷画制作→納品のプロセスに特にこれといった成功の要素がないので)失敗といえば、弁護人席と検察官席の場所が把握できていなくて、席取りを失敗し、被告人の斜め後ろ姿や横顔しか見えなかったとき、くらいでしょうか。基本的に弁護人が右側、検察官が左側なんですが、これが逆になっている法廷もあるんです。同じ法廷でも左右入れ替わることがあるのでそれ以来なるべく事前確認するようにしています。

直接法廷画と関係がない話でよければ、こんな成功談があります。

静岡のある街で知的障害者に体当たりをしてはスマホを落とし、「画面が割れたから弁償しろ」という詐欺が横行していました。犯人がすごむので修理代をしかたなく払う方が多かったのですが、知的障害者のコミュニティの間で、あまりに似たケースが報告されているのでこれは詐欺だと気付き、警察に相談したところ、民事不介入と冷たくあしらわれてしまったということです。

その情報を聞きつけTBSの朝の番組が被害者の話を聞いて犯人の似顔絵を書こう、ということで法廷画家の僕にお声がかかり、実際被害者の話を聞きながらその場で素早く似顔絵を書いたところ、数名から似てる似てる、そっくりと評価をうけました。

そして「この男がこういう犯行を繰り返しているのでご注意を」と番組で注意喚起したところ、数カ月後に犯人が検挙されました。

僕の似顔絵が逮捕に直接つながったのかどうかは警察は「捜査上の秘密」ということで明らかにされなかったのですが、報道を機に警察が動いたことは確かだったそうで、法廷画制作で培った人の顔の要点をとらえてスピーディに描き出す技術が、似顔絵捜査官のような役割を果たすことに繋がったということに僕は満足感を覚えたのでした。

報道などテレビで裁判を伝える中、自分の法廷画は、どの様な役割であって欲しいですか

このような裁判が行われていた、という事実が視聴者にフラットに伝わればそれが一番いいですね。一般の方が裁判員候補者に選ばれる確率は1440分の1。決して高くはないのですが、いつでも傍観者から当事者になる可能性がある時代です。今までは無縁だったかもしれない法廷の世界。裁判とはどんなものなのか、国家権力である司法はどのように国民を裁いているのか、実際に行われた裁判の報道を聞いて、もし裁く側に回った時、自分ならどうするだろうか—といったことを考える一助になれば幸いに思います。

よしたか
よしたか
以上、インタビューアーカイブでした。最後までお読みいただきありがとうございました!
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ABOUT ME
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フリーランスのイラストレーター/法廷画家/漫画家です。テレビ番組用イラストや書籍・広告用イラストを描いています。 親しみやすく、使いやすいイラストをハイスピードでご提供いたします。コミカルなタッチから法廷画まで幅広いタッチで対応可能です。
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